ゆめみがちな記録帳

舞台の記録とか推しの話とか

観劇記録:舞台 終わりの行方(2023年1月)

タイトル:舞台 終わりの行方

 

公演期間::2023年1月25日〜2023年1月30日*1

 

劇場名:シアター・アルファ東京

 

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郷本直也・貴城けいダブル主演舞台。今回郷本久しぶりの主演ということで、郷本村の友人に誘われて行ってきた。

 

2022年12月某日、旭陽一(里村孝雄)が一人暮らしをしている自宅の階段から転落し負傷した。陽一が助けを呼ぼうと這いつくばりながら、リビングに向かっていた所を発見した旭泰子(貴城けい)とその旦那で婿の旭輝明(郷本直也)。輝明は驚き、救急車を呼ぼうとするが泰子は動かない。実の父が助けを求めている事をただじっと見ていた。

一週間後、長女の明子(小林美江)、次女の裕子(舘智子)ら家族が集まり、これからの事を話している最中、陽一が突然『お母さんは死んでいない』と口走る。明子や裕子は、父の痴呆が始まったとショックを受ける中、泰子は淡々と施設に入れるのはどうかと提案する。家族も知らない陽一と泰子にあった過去とは・・・。

 

三姉妹の母は泰子が高校生の時(96)に階段から転落死している。姉二人は実家を出ていたので*2、一緒に住んでいたのは泰子・陽一・そして母だった。しかし母がなくなった日、泰子は免許合宿に行っていて、陽一は出張に行っていたので、母は一人で亡くなってしまった。泰子はそのショックから引きこもりになり、学校に通えなくなる。それを心配した同級生の輝明が、課題を届けにきたりする。少し経って二学期。石津玲子という教員が着任して泰子を訪ねてくることにより、物語がまた違う方向へと動き出す。これが96年の話。

一方現代。陽一が転落した一週間後の年の瀬。陽一のもとには長女の明子、次女の裕子、三女の泰子夫婦。そして明子の娘の芽衣と夫の和也が集まっていた。あらすじに記載通り今後のことを話していくのだが、実はそれぞれ介護とは別の『家族の課題』を持っていた。その課題に葛藤しながら、陽一の介護について話し合っていく。この二つの時代の物語が、うまい具合に同時に動きながら交差して、最後は一つになっていく。

舞台が始まった時、上手のダイニングテーブルには現代の陽一が、下手の居間には96年の泰子と輝明がいる。こういう形で舞台上に二つの時代の人物が同時にいることが多いのだが、それがどちらも邪魔になることなく、自然に溶け込んでいた。すっと物語が入ってきやすかった。動きや台詞がうまくリンクしていたりして、すごく複雑で細かいのだけれど、それがより作品を面白くしていた。あとなんだろう。今回全体的に『どこにでもいるとある家族の日常』を覗いてるような、そんなリアルさがあると思うことが多かった。舞台を見ているという感覚が消えるくらいに、自然な会話と自然な動きで。例えばいままでなるべく気丈にふるまっていた裕子が、仏壇に酒を供える際に「このままがいいよ」と吐露して、それに対して輝明が供え物の酒を開けるかどうかの話だと思って答えるシーンがある。その時の裕子の言い方がすごくリアルで、言葉にできない気持ちになれた。あと前半家族会議をしているときの明子の言動もすごいリアルだなって。輝明が「お義父さん変ですよ」と連呼した際の怒り方とか、「泰子が住めばいい」と言ったのに対して拒否をされたことへの反応とか。こういう人いるよなという感じ。芽衣と輝明の目配せの仕方とか、和也が芽衣に対して余計なこと言った時の周りの「ああ……言っちゃったよ……」みたいな顔とか。実際親戚が集まったときこういう事あるよなと思える状態で舞台が進んでいくから、余計なことを考えずに楽しむことが出来た。そういえば和也なんであんな弱いんだ。もうあれは芽衣がイライラするわとなった。でも最後良いこと言っていたよな、和也。

そういえばシアターアルファに初めて行ったのだが、作りが本当に面白かった。A~F列センターブロック(5~14番)は普通の舞台と同じ作りだけれど、同列上手下手サイドブロック(1~4・15~19)はA列が舞台と同じ高さからスタートしていて。今回の作品はサイドブロック前方に座ると、余計に旭家の一員になったような没入感を味わえてよかった。

 

周囲とも話していたのだが、泰子・輝明・陽一のペアが本当にそれぞれそっくりだった。96年輝明の岡野一平の横顔や、笑い方とかすごくそっくりで。「ああ、将来はぜったいこう育つわ*3」となった。友人が「え、岡野さんカテコの笑った姿とかも似ている……最高」とドはまりして帰ってきたので面白かった。泰子は最初「この二人がペアなの?系統だいぶ違くない?」と思うところはあった。あることをきっかけに「母が生きているかもしれない」という希望を思った96年。それが父の不倫を知ることにより、父を恨み自分を恨み大人になるとしたら……ああいう姿になるんだろうと、実際観劇して感じた。そして一番そっくりだと思ったのが陽一。それぞれの陽一が舞台上ですれ違うシーンが何度かあったのだが、横顔がすごくそっくりで。「実は血のつながりありませんか?」と言いたくなるぐらいそっくりだったからこそ、今回違和感を覚えることなく見ることができたのかとも思った。

 

なぜ泰子が陽一に対して冷たいのか。さっき大人になった泰子について書いた時も少し触れたが、96年に母が死んだあの日、父は実は不倫をしていたということを知っていたからだった。最終的に現代の泰子は「恨んでいるんだけれど、忘れないでほしい」「寂しい」ということをみんなの前で言う。きっとその気持ちの表れが、序盤の陽一が倒れていた時の泰子の行動だったのだろう。それを受けて、ある公演を見に行ったあと周囲と「自分が泰子なら、陽一のことを許せるのか」という話をした。この話をするうえで『いつまで陽一が不倫をしていたのか』が重要になってきて、その時期によって許せるかどうかの意見も変わってくるのかと思った。

私は泰子がビデオを見つけるその日まで不倫していたのだろうと思っている。なんなら泰子がその事実を知った後も、陽一に知ったことを伝えていなければ不倫は可能だ。終盤泰子と輝明が母の転落死の責任の所在について話しているとき、輝明が「お義父さんだけの責任じゃないでしょ」と言う。確かに泰子も合宿免許でいなかった。二人の責任だといえばそうだ。でも泰子が母の死で引きこもっていた時、陽一はどういう気持ちでいたのだろうか。先生が初めて来たときに泰子に「お父さんそういうのできないもんね*4」と言われた時、どういう気持ちでいたのだろうか。もしあの時も不倫をしていたのならば……。自分が泰子なら父のことを許すことはできないし、恨んだままなんだろう。と、千穐楽を見て感じた。許せないという意見のほうが周りには多かったが、それでもその答えに至るまでの個々の解釈は十人十色だったので、すごく面白かった。演出家や演じた側はどういう解釈なのかが気になる。

あとなんで輝明は陽一に対してあそこまで「家族になりたい」という気持ちが強かったのか。これも周囲と話題になった。ひとりが「実の父親に消えてほしいと思っていたから、不倫したという事実はどうであれ、鍋を囲んだり楽しい時間を過ごしたからその思い出のほうが強いんじゃないか」という見解をしていて、なるほどと思った。私はただただ「泰子のすべてが壊れていく96年を見ているのに、泰子の味方でいながらも父親の肩を持つのがわからないな」と思っていたので、正直言われるまでそこまで考えることが出来なかった。何度見てもまだまだ気が付く点はあるし、考察しきれないところがあるので、もっと見たいと思った。あと台本出してほしい。

 

「家族って何ですか」という輝明が陽一に対して投げかける台詞がある。様々な家族の課題を抱え、それぞれが葛藤していく中でのこの台詞。

私自体は両親がいて、やりたいことをそれなりにさせてもらえて、ごくごく普通の家庭で生きていたと思う。違うのは自分が今人生を共に歩もうとしている人間との愛の形ぐらいで。でも父方も母方も両親が若いころからいろいろとあり、今も介護をはじめとして様々な課題を抱えている。特に父親に関しては、祖母と同居をしているが「俺の家族はいないものと考えている」と言っているぐらいだ。そんな状態をもう何年も見てきた私にとって、輝明のあの言葉は本当に刺さった。家族って何だろう。私は家族に対して何かできているのだろうか。そう自身に問いかけたくなる、そんな作品だった。ここに書いた私の解釈があっているかはわからない。でもこの作品はきっと正解がないし、自分がどういう人生を歩んできたかで感じ方が変わるんだろうと思った。

本当はもっと書きたいのだけれど、あまりにも深い沼*5で、このままでは永遠に感想がまとめきれないのでこの辺で。また追加したくなったら追加記録として書こうと思う。今回終わりの行方を探す旅に私も行けてよかった。何度観ても涙が止まらなかった舞台に出会えて良かったです、素敵な作品をありがとうございました。以上を終わりの行方の観劇記録とする。

 

 

 

 

 

 

 

 

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*1:観劇日は諸般の事情により今回は記載無しとする

*2:実際はそこまで明記されていなかったけれど、見ている感じそういう状況だった。

*3:郷本輝明になるという意

*4:だった気がする、細かい台詞あいまい

*5:深井沼