ゆめみがちな記録帳

舞台の記録とか推しの話とか

観劇記録: レオポルトシュタット(2022年10月)

タイトル: レオポルトシュタット

 

観劇日:2022年10月29日

 

劇場:新国立劇場 中劇場

 

公式サイト

www.nntt.jac.go.jp

 

公式ダイジェスト(囲み取材)

youtu.be

 

今回も例のごとく土屋佑壱推しの友人に誘われて観劇してきた*1本当はまだ9月から10月頭の観劇記録が纏まっていないのだけれど、早くこの話をしたいからまとめる。もしかしたら追記する。

今回とても感想が長いのと、ネタバレ含むので初めて目次を置いた。ネタバレあまり踏みたくない人は、読むのをやめるか目次をタップして最後のまとめだけ読んで欲しい。

 

⚠️ネタバレ含む。敬称略⚠️

 

 

 

 

 

作品の内容の話

20世紀初頭のウィーン。レオポルトシュタットは古くて過密なユダヤ人居住区だった。その一方で、キリスト教に改宗し、カトリック信者の妻を持つヘルマン・メルツはそこから一歩抜け出していた。街の瀟洒な地区に居を構えるメルツ家に集った一族は、クリスマスツリーを飾り付け、過越祭を祝う。ユダヤ人とカトリックが同じテーブルを囲み、実業家と学者が語らうメルツ家は、ヘルマンがユダヤ人ながらも手に入れた成功を象徴していた。しかし、オーストリアが激動の時代に突入していくと共にメルツ家の幸せも翳りを帯び始める。大切なものを奪われていく中で、ユダヤ人として生きることがどういうことであるかを一族は突き付けられる......

あらすじからして絶対終わったあとに考えさせられる舞台だとわかる本作。結論として涙無しでは観劇は出来なかった。トム・ストッパード自身の話と、実際にその時代に起きていた事実を元に書かれたレオポルトシュタット。1899年~1900年/1924年/1938年/1955年の4つの時代に分けて話が進んでいく。

初めの1899~1900年はとても楽しそうな場面もあった。しかし時が経つにつれ、私が幼い頃から読んでいた『アンネ・フランクの日記』や授業で勉強したあの時代の話へと近づいていく。1938年のシーンの市民が警官をやってきたシーンが1番泣いた。市民が蹴る椅子の音が、みんなの叫ぶ声や泣く声、悔しさや色々な思いを抱えたなんとも言えない声にならない声が、未だに耳に残っている。友人も私も、あのシーンで1番泣いていた。友人は戯曲を購入して何度も読んでから観劇していたので、今後の展開がわかっていたので余計にだったらしい。1955年にはローザとナータン、そしてレオという青年の3人のシーンになる。そこで1938年の話や家族に起きた話をして、最後は終わる。最後のシーンの話はまとめでしたいので、ここでは触れないでおく。

この後の出演者の話でも割と触れているので多少重複するかもしれないが、1938年のシーンのヘルマンとエルンストの会話の話がしたい。そこでヘルマンはヤーコブの事やグレートルの事等のある秘密を話す。その秘密というのがそれまでのシーンを「あのシーンの話ってもしかしてここに繋がってこうなるのか?」という風に思わせることが個人的に多かったのだが、正直それがあっているかわからない。でもこの秘密を知ってみるのと知らないので見るのではだいぶ印象が変わるなと思った。

秘密といえばもう1人秘密を抱えた人間がいる。それがグレートルだ。グレートルはハンナという女性が恋心を抱くフリッツとある秘密を抱える。そこから1924年のグレートルは旧約聖書にはまりユダヤ人の習慣や教えの大切さを学んでいく。さらに時が進んで1938年、歳をとり病院にいたグレートルだが、ある事件の日に病院から出てくる。その時にハンナに「ごめんね」と謝るのだが、すぐに「なんでもないの」という。私はこの「ごめんね」が1899年のことについてだと思っていた。しかしそのあとヘルマンに「私がユダヤ人だったら結婚してくれた?」と聞く。それを聞いた後にヘルマンの秘密を知ると、グレーテルの1924年の行動や1938年の発言のとらえ方がすべて変わる気がした。というか私の中では変わった。なんかこうして読むと秘密にとらわれすぎているような気もするが、少なくとも私にはその秘密がとても印象深かったのだ。

 

出演者の話

出演者全員凄かった。子ども達こんなに重い舞台をやるのか………と、謎の感動をしてしまった。市民とのシーンの幼いレオの怪我のシーンと、市民がミミ・ベラに「いないないばあ」とやるシーンが本当に涙が止まらなくて。その後ナータンが妹達を守るために走って寄ってくるのもたまらなかった。ふと一花ちゃん*2やほかの子ども達の年齢を見て変な声が出た。彼ら彼女らの歳の頃の自分は何をしていたか考えて、改めて子役と言われる子達の凄さを感じた。これからの活躍を祈っております。

友人の推しである土屋佑壱。本当にもう、土屋佑壱がいい意味で恐ろしかった。

私の中の土屋佑壱はその印象がすごい強いので、なんかもうウエルキン観劇した時背後から思いっきり鈍器で殴られた気持ちになった。もうぐわんぐわんした。すごかった。

ウェルキンでこう述べていたけれど、今回はもうそんなじゃなかった。目が離せなかった。先程言った通り大きくわけて4つの時代に分けられる中で、今回主人公ヘルマンやその妻達は1899~1900/1924/1938に出てくるのだが、もちろん時が経っているので皆歳をとる。歳の取り方の変化がすごいと思ったのが2人いるのだが、そのうちのひとりが土屋佑壱だった。1938年のシーンでのルードヴィクはもうボケが入ったお爺さんになっていた。ああよくいるおじいちゃんだなぁと言う感じだった。いやというか一瞬でおじいちゃんになって戻ってくるのがもう先ずすごい。鳥肌が立った。でもナータンとレオにあやとりで数学の話をしている時は、1899年のルードヴィクに戻る瞬間があってそれも凄かった。そうだレオが割ったカップを直そうとする時がもうボケが入ってるけど、割れたカップを必死に戻そうとするのが、バラバラにされてしまう家族を必死に戻しているようで苦しかった。友人にも言ったし彼女も言っていたが、土屋佑壱が出る作品は本当に色々と感情を動かされたり考えさせられたりする作品が多い。その中で存在感を出してくる土屋佑壱はすごい、本当にすごい。今回見れてよかったと思った。

歳の取り方の変化がすごいと思ったもう1人がヴィルマ演じる浅野令子だ。1938年の彼女は寝たきりで口も聞けなくなる。車椅子に乗せられてエルンストに押されながら出てきた時、ひゅっ……と自分が息を飲む音がした。恐ろしかった。私が過去に見た寝たきりの親戚を思い出したぐらいの状態ででてきた。これが少し前まで動き回っていた女性と同じなのか?私の知らないうちに実は劇場や周りも何十年も経ったか、別のキャストを入れ替えたのではないか?とさえ思った。1938年最後にエルンストがある行動をする時、ヴィルマの表情が少し動いた(ような気がした)。私の位置じゃ細かくは見えなかったが、そんな気がして仕方がなかった*3。そう見えた時に何かもう色々な気持ちが私の穴という穴から出たんじゃないかと言うくらい、苦しかった。苦しいしか言えていないが、本当に苦しかった。あそこまで感じさせるのはすごいと終わったあと感動した。

今回個人的に好きだったのがフリッツ/市民役の木村了だった。木村了ライチ光クラブ帝一の國の印象が強すぎるのだが、なんかもうライチの時ぶりの感覚を思い出し

た。フリッツは嫌な奴だし、市民はもう……もう………言葉にできない。ただどちらの役も「嫌いだ*4」と「好きだ」がこんなに同時多発することあるのかってぐらい感情が渋滞していた。まずフリッツだが、グレートルとのあるシーンとその後ヘルマンがやってきた時のシーンを見ていた頃は「嫌な奴だな!!」ぐらいだった。でも1938年にヘルマンがエルンストにした時の話がそのシーンと繋がるのか?となった時に、「ただの嫌な奴じゃなかった、なんか言葉に出来ない嫌な奴だった」という感じになる。後々思うと辻褄が合わないところもあるのだが、もしそれが辻褄が合い本当にそうなのだとしたら……?と思ったら、そのうえでもう1回見たら絶対『嫌な奴』だけで感想は終わらないだろうなと思った。市民に関してはもう本当に言葉にできない。ただ友人にも言われたけど、あの惨劇をナチス・ドイツだけのせいにしているけど、結局は市民含め全員がユダヤ人を苦しめたんだよね……というのが『市民』という役であることで改めて思い知らされるよねという感じだ。友人の言っていた言葉が、私の言葉で書き起こしたこれで意図があっているか分からないけれど。

主演浜中文一。私は片耳が聞こえないので複数の音が同時になると聞き取れない時があるのだが、浜中文一は基本ききとれたので「通りやすい声なんだなぁ」と思った。ヘルマンのシーンで好きなのは、セデルを過ごしている家族たちから少し離れてステージ中央で「グレートル……!!」と叫んだあとのワルツだ。私は最初グレートルに裏切られたからああいったのかと思ったけれど、1938年のことがあるならそうじゃないだろうな。じゃあこうなのか?と何度も何度も頭の中で整理したけど、納得いく答えは出なかった。なのでヘルマンは自分の中で噛み砕くのがとても難しい役だなと思ったのだが、それを自分のものにしてあそこまで素敵に演じられていて凄かった。

もちろん他のキャストもよかった。COCOONぶりの田中亨やウエルキンぶりの那須佐代子、私の青春ゴーバスターズの鈴木勝大とか知っている名前が多かったので「え!?すごいなんかすごい!!」という気持ちになったし、今まで見たことなかった役者陣は「なんで今まで知らなかったんだ」という気持ちになった。全員書きたいけれど、書くとこの記事が永遠に終わらなくなるので泣く泣く書くことを諦める。

そういえば今回30人弱の出演者で構成されている大所帯だが、入れ替えが激しいからかカテコまで30人いたことを忘れていた。圧迫感なく楽しむことはできたが、逆に入れ替えが激しくて途中役が混乱する。友人に言われたのに実行できなかった愚かな女は私なのだが、家系図を覚えてから行くととてもわかりやすいと思う。

 

舞台美術の話

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今回発券した時に友人から少し遠いかもといわれたのだが、舞台がせり出していて10列始まりだと知ったときはとても驚いた。すごく舞台が近い。一列目なんて舞台がそのままつながっているから余計近いだろう。ちなみに2階に座った知り合いは「2階は全体を上から見渡せるから、歴史の傍観者になれる」といっていてとても面白かった。

バックステージツアーを視聴してから今回観劇したのだが、生で見ると計算されつくした中で物も人も動いているのがとても分かった。場面転換をしているときのスタッフ陣の動きが本当に速い。盆が回っている中であそこまで迅速な動きができるのは本当にすごいなと思った。シーンによっては「今動いているな」と感じ取れるのだが、大体は物語に集中しているといつの間にか終わっている。本当にすごい。

バックステージツアーでもうつされているつるし道具の話。シャンデリアとかが盆の回転とともに降りてくるのだけれど、よくシャンデリアと柱がぶつからないなと。降りてくるたびにはらはらしたのだが、すごく計算されてどんな小さな狂いも許されないんだろうなと思った。

あと久しぶりに消え物*5を使う作品に出会ったなと思った。最近は電子タバコでそれっぽいものが出ているので、そういうものを使用することが多いだろう。なのでルードヴィックがつけた瞬間に双眼鏡でガン見してしまった。マッチを消した時のにおいが私の席までしたのだが、その匂いがあったから余計に世界観に入り込める気がした。

 

まとめ

時の流れと共に見ていく一家族の物語。最後はきっと少しでもいい方向で終わるのだろうと、少し期待を持っていた。でもそんなことは無かった。いや、そういうのは間違っているかもしれない。1955年の最後のあのシーンは人によって感じ取り方が違うと、友人と話していて感じたちなみに私はなんとも言えない重さを感じた。思い何かを背負わされたような感覚。でもその何かがなんなのかは分からなかった。ただただ言葉にできない黒い何かを感じた。でもその中でもレオが家系図を読み上げてローザがどうなったか答える中、ステージ中央で食卓を囲んでセデルを過ごす彼らの姿はとても楽しそうだった。宗教を越えて作られた家族の絆によって守られた、確かにそこにいたのを感じられた。黒く重い何かの中に、少しの温かさを感じた、だからこそ余計に最後考えさせられたし泣かされた。

私は今回基礎知識が甘かったので後ほど友人の補足を得ることでどんどん解像度を上げていったが、正直知識なしで初見だと難しいかもしれない。でもこんなに素晴らしい演劇はもう体験できるかわからないし、舞台が好きなら見てほしいと私は思う。もし難しかったら戯曲を買って後から解像度を上げればいいし、周りに見た人間がいたら話して解像度を上げてほしい。というかそもそも舞台なんて個々の感想があってそれを鍋でぐつぐつと煮込みまくって自分の中に落とし込めるものなんだから、こんなにそれが合う作品なんてないはずだ。

Twitterでも言ったが、こんなに素敵な作品なのに空席があるのがもったいない。私はフォロワー4人の小さなアカウントだし影響力は本当にないが、もしこの記事を10月30日時点で読んで気になった人がいたら、今すぐ新国立劇場に駆け込んでほしい。そうしたらさんざん友人と語って夜帰宅してから、仮眠をとりつつ「昼公演に間に合うように記事を上げなきゃ」夜通し記事を書き続けた私が報われるので。もしまだ席種や場所を選べるのなら、歴史をダイレクトに感じたいなら1階で、傍観者になりたいなら2階がおすすめなので、参考にどうぞ*6。先に言った通り夜通し書いているので感想が本能で書かれていておかしい部分もあるかもしれないが、以上をレオポルトシュタットの感想とする。

 

 

 

 

 

 

 

 

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*1:友人登場記事

*2:さすがに子供を敬称略に出来なかった。大人の皆さん申し訳ない

*3:これで違ったら怖い。

*4:役どころの話で御本人ではない

*5:この場合タバコ

*6:もし選べなかったら申し訳ない